千里眼 トランス・オブ・ウォー(上・下) ☆☆☆☆☆

(千里眼 トランス・オブ・ウォー 上・下 / 松岡 圭祐 / 小学館文庫 2005)

『千里眼』シリーズの長篇第10作です。
前作「ヘーメラーの千里眼」と同様、リアルタイムの事件のみならず、自衛隊時代の岬美由紀(前作の回想シーンで描かれた訓練生時代の後のようです)の苦悩や葛藤にも半分近くのページが費やされます(上巻の大部分が、このパートに充てられています)。

2004年10月、フセイン政権崩壊後の混乱が続くイラクで、4人の日本人がシーア派武装勢力に拉致されます。武装勢力はイラクに駐留している自衛隊の撤退を要求しており、解放交渉のため外務省職員が現地へ派遣されますが、人質がPTSDを発症しているという情報もあり、精神面のケアのため臨床心理士が同行することになります――この臨床心理士こそ、岬美由紀でした。
外務省職員の成瀬とともに美由紀は、武装勢力との交渉に臨みます。幸い、相手のアル=ベベイルはアルカイダのような狂信的なテロリスト集団ではなく、伝統的な部族戦闘グループでした。しかし交渉が合意に達しようとしたとき、キャンプはクルト人ゲリラの攻撃を受け、大混乱に陥ります。美由紀は自分の身を囮にしてクルド人ゲリラの注意をひきつけ、成瀬と4人の人質を自衛隊のヘリコプターで退避させることに成功しますが、自分は現地に取り残されてしまいます。そして、的確な行動でゲリラの戦車を無力化した美由紀は、スパイの疑いでアル=ベベイルの捕虜となってしまいます。
ここから場面は5年前にフラッシュバックし、美由紀が自衛隊幹部候補生として戦闘機パイロットを目指していた頃の回想シーンとなります。その日の訓練を終えた美由紀を待っていたのは、両親が交通事故で亡くなったという知らせでした(実は美由紀は自衛隊員になるため両親の反対を押し切って防衛大学に入学して以来、両親とは没交渉になっていました――詳しくは前作で描かれています)。大急ぎで実家のある神奈川県藤沢市に戻った美由紀は、両親の車が対向車と衝突して民家に突っ込み、火災を引き起こしたことを知らされます。両親と対向車の運転手、そして民家で火事に巻き込まれた夫婦が犠牲となり、その民家の20代の娘だけが生き残ったことを知ります。弁護士の間瀬からそのことを聞いた美由紀は、遺族の娘に対してできるだけのことをしてやりたいと考え、自分の実家を居住用に明け渡すとともに、PTSDに陥っている娘のカウンセラー費用も負担すると申し出ます。カウンセラー費用は相当な高額で、現在の美由紀の収入では賄いきれないものでした。正規の戦闘機パイロットとなり、昇進すれば収入もアップして費用負担も可能になるはずでしたが、両親の死にショックを受けた美由紀は(まさに自分もPTSDになりかけていたわけです)、相手を殺すことになる戦闘機訓練に耐えることができませんでした。
こうして美由紀は、別の進路として救難ヘリのパイロットを目指そうとします。実際、初の女性救難ヘリパイロットとなった天笠千春二尉が話題を呼んだため、空自では第二の女性救難ヘリパイロットの養成を進めており、美由紀も候補生12名に選ばれます。しかし、内実としては、防衛参事官の娘である門倉里佳子が選ばれることは内定していたのでした。もちろん他の候補生はそのことを知る由もなく、教官の小俣も人事教育局の“意向”を知らされても聞き流しています。ともかく厳しい訓練は続き、候補生は次々に振り落とされていきます。成績の上では里佳子と美由紀がデッドヒートを繰り広げますが、時に規律よりも情を優先させてしまう美由紀は(末期がんの夫に最後の面会をさせるため、年長の訓練生仲間・鐘ヶ江琴絵を軍規を曲げて病院へ送り届けたりもします)最終的に総合点で劣り、救難ヘリパイロットの道は閉ざされます。しかし、訓練の中で強靭な心を取り戻した美由紀は、再度、戦闘機パイロットへの道を進み出すのでした。
美由紀が自衛隊初の女性戦闘機パイロットだったという情報は、インターネットを通じてアル=ベベイルの幹部も入手していました。部族の指揮権を引き継いで間もないナジムは、比較的公正な考え方の持ち主でしたが、古参兵の参謀役モハンマドは美由紀をスパイと決めつけており、即座に死刑にすることを要求します。若手の元イラク空軍パイロットで軽薄そうな青年ライードは美由紀の経歴に驚き、一目置いた様子でした。ともかくも、バジムは美由紀をアル=ベベイルの本拠地へ連れていき、長老のハッサンに会わせることを決めます。
一方、人質の救出には成功したものの、美由紀が武装集団の手中に落ちたことを知った日本政府は、対応に苦慮していました。小泉俊一郎(純一郎ではない)首相、山口(川口ではない)順子外相、岩破(石破ではない)茂防衛庁長官らによる深夜の協議が続きますが、サマワ駐屯の自衛隊を救出活動に振り向けることは不可能なため、米軍に頼るしかありません。米国では、迫る大統領選挙で劣勢を強いられているジョーイ(ジョージではない)・ブッシュ現大統領が、再選を目指しイラクで強硬手段に出ようとしていました。美由紀を拉致した武装集団はアルカイダの一派と断定し、戦闘爆撃機による無差別攻撃でテロリスト一味を壊滅させようというのです(もちろん、人質の命が失われても、大義のための尊い犠牲として扱われるだけです)。私的コンサルタントとして大統領の言動に影響を与えているのは、メフィスト・コンサルティングのジェニファー・レインでした(ブッシュの財務基盤である軍需産業マードック社がメフィスト・コンサルティングの大株主であることは周知の事実です)。
アル=ベベイルの本拠地で、幼い少女たち(クライマックス直前の彼女らと美由紀の再会シーンは、ナウシカと“チコの実シスターズ”そのものです(^^;)や戦争未亡人アスッドの心をつかんだ美由紀は、食事の席でハッサンやナジム、モハンマド、ライードを相手に、自分が自衛官から転身して臨床心理士を志したのは「世界から戦争をなくす」ためだと力説します。美由紀が信奉しているのは、日常では戦闘行為を厭う兵士たちが、いざ戦場に出ると抵抗なく殺戮行為に及んでしまう現象を説明する「トランス・オブ・ウォー」の理論でした。実はイラクでも著名な心理学者マスウード・アブドゥルハミードがこの理論の研究者として名を馳せましたが(美由紀もマスウードの論文から多くを学んでいます)、やがて失脚し、今は世間と交渉を断って隠遁生活を送っているといいます。戦闘中にトランス状態(トランス・オブ・ウォー)になった兵士は、非戦闘員や時には味方すら敵に見えてしまい、徹底的に殺戮することしか意識に上らなくなってしまうといいます。人類の15~20%程度は暗示にかかりやすく、すぐにトランス・オブ・ウォーに陥る一方、免疫のある少数派もいますが、多くの標準的な兵士たちは前者に影響を受けてしまいます。また、各国の軍事指導者の中には、兵士たちにトランス・オブ・ウォーを迅速かつ確実に引き起こすような策を検討・実行している者もいるといいます。しかし、モハンマドをはじめとする兵士たちは否定的でした。
そんな折、居留地が米軍機による攻撃を受けます。美由紀は居留地に放置されていたスクラップに近いヘリを操り、攻撃機を山腹に激突させることに成功しますが、アル=ベベイルには多くの死傷者が出ます。米軍が本気でシーア派武装勢力の掃討に乗り出したことを察したハッサンとナジムは、シーア派の拠点都市ナジャフに他の武装勢力の幹部たちを集め、米軍への徹底抗戦を組織化しようと考えますが、これこそ武装勢力を一か所に集めて殲滅しようというブッシュ大統領の思うつぼでした。美由紀もナジャフへ赴きますが、そこで、サマワに派遣されていた門倉里佳子と鐘ヶ江琴絵と思わぬ再会を果たします。しかし、集会所で武装勢力の族長らにトランス・オブ・ウォーについて語り、戦闘中止を呼び掛けた美由紀は怒り狂った兵士たちに袋叩きに遭い、琴絵と里佳子は助けることもできず脱出するしかありませんでした。部族間の妥協で死刑を免れた美由紀は、オムカッスル刑務所へ送られます。
オムカッスル刑務所は暴力と拷問が支配する地獄のような場所でした。ところが数日後、看守たちも悪名を知っている大盗賊ジャジ・ア・バラカが刑務所を訪れ、美由紀を脱走させます。ジャジは、前々作「千里眼の死角」で、ディフェンダー・システムの攻撃を受けて瀕死の重傷を負った人物でした。オムカッスルの町へ向かった美由紀は、美由紀の言葉を信じて待っていたライードと再会し、彼の協力でマスウード教授の隠遁所を訪ねます。ライードがパイロットを務め、スクラップを組み立てた旧式の飛行機で北部の山村へ到着した美由紀は老齢のマスウードに出会い、協力を要請しますが、マスウードは助言を与えることしかできませんでした。米軍機によるナジャフ空爆が迫っていることを聞かされた美由紀は、戦場でトランス・オブ・ウォーに陥った兵士に正気を取り戻させる唯一の手段を実行すべく、武器も積んでいない旧式プロペラ機でナジャフへ向かいます。ナジャフでは、米軍のF16戦闘機とシーア派武装勢力による激烈な戦闘が繰り広げられていました。そこに侵入した美由紀の機は、非戦闘機である黄色の塗装がなされているにもかかわらず、両軍に挟撃されることになります――これこそ、両軍の一部の兵士がトランス・オブ・ウォーに陥っている証拠でした。
同じころ、命令を無視して護衛艦"むらさめ"を発進した救難ヘリがいました。天笠、門倉、鐘ヶ江の3人の女性自衛官が操るヘリは、一路ナジャフを目指します――。

オススメ度:☆☆☆☆☆


千里眼トランス・オブ・ウォー 上  小学館文庫 - 松岡 圭祐
千里眼トランス・オブ・ウォー 上 小学館文庫 - 松岡 圭祐

千里眼トランス・オブ・ウォー 下  小学館文庫 - 松岡 圭祐
千里眼トランス・オブ・ウォー 下 小学館文庫 - 松岡 圭祐

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