変容風の吹くとき ☆

(変容風の吹くとき / ジャック・L・チョーカー / 角川文庫 1990)

角川文庫Fシリーズから出ていた、『チェンジウィンド・サーガ』の第1巻です。とはいえ、Fシリーズの例にもれず(笑)「全8巻の長大な異世界ファンタジー」と見えを切っておきながら、2巻以降は刊行されていません。ただし、同じく1巻で打ち止めとなってしまった『エリン戦記』や『ガンダラーラ・サイクル』などと異なり、別の事情があるようです。「トンデモ本の世界R」で山本弘さんがレビューしている通り、「訳がとても読めない代物」で、さすがの角川編集部も我慢できなかったということなのかもしれません。どんなすさまじい翻訳だったのかは後のお楽しみ(笑)として、まずはストーリーを紹介しましょう。

現代アメリカの地方都市に住む17歳の女子高生シャーリーン(愛称チャーリー)とサマンサ(愛称サム)が主人公です。転校生のサムは知的ですが引っ込み思案で友達が少なく、男の子と付き合ったこともないのに対し、さばけた社交家タイプのチャーリーは既に初体験も済ませています。こうした性格の違いのせいか、かえって馬が合ったふたり(容姿も背格好も似ています)は親友の間柄でした。ところが、ここ数日サムが学校を無断欠席し行方不明になっているため、チャーリーは親友がなにか事件に巻き込まれたのではないかと不安をおぼえています。ようやくサムから届いた手紙の指示に従って、閉店後の地元のショッピングモールに出かけていくと、髪を切って男の子のような恰好をしている(つまり変装している)サムが、倉庫の片隅に隠れていました。サムが言うには、夜な夜な夢の中でやけにリアルで無気味な声に呼びかけられ、起きていても黒ずくめの怪しい人物(MIB?)につきまとわれたり、上空から無気味な黒雲や雷に追いかけられたりしており、恐ろしくなって隠れていたということです。そんなサムにとって、信用できる相手はチャーリーだけでした。半信半疑のチャーリーは、ともかくサムを落ち着かせようと、車で郊外の丸太小屋へ行き、週末を過ごすことにします。サムが体験していることは妄想だと証明するために、チャーリーが雷雲を呼び出せとけしかけたところ、サムの呼びかけに答えるように激しい雷を伴った黒雲が来襲し、ふたりは黒雲に吸い込まれてしまいます。
雲の世界を落ちていくうち、ふたりは角のある無気味な人影に襲われますが、緑衣の男に救われ、どことも知れぬ森に降り立ちます。そこで出会ったのは傭兵のゼンチュアと女ケンタウロスのラダイで、ゼンチュアは妖術師ブーレアン(あの緑衣の男)の指示で、異世界からの訪問者サムとチャーリーに、この世界のことを教え、安全な場所へ送り届けるためにやって来たのだといいます(ちなみにゼンチュアは英語が話せます)。
ゼンチュアによれば、この世界は互いに隔てられた多数の階層が重なり合っており、様々な種族が住んでいますが、支配的なのはアクッ族です。この世界には定期的に“変容風”という強風が襲い、それを浴びたものは生物も無生物も別のものに変容してしまうといいます。そのような世界の未来を決定するような大きな力を持つ存在が異世界にいることが明らかになり、この世界の二大勢力が、その存在を呼び寄せてわがものにしようとしているのでした。その“大きな力を持つ存在”とはサムのことでしたが(本書の中では、その能力がどのようなものなのか、明らかにはされません)、チャーリーも巻き込まれて一緒に来てしまったわけです。ブーレアンはそのことを知っていますが、敵対する角ある男たちは、目的の人物は女の子だということしか知りません。そんなわけで、ゼンチュアはボーイッシュなサムを男の子に偽装し、女っぽいチャーリーを目的の人物だと思わせ、角ある男たちを出し抜こうと考えます。ところが、ふたりに対して話した内容以外に、ゼンチュアには別の隠された目論見もありました。首都テュービコーサへ向かう途中、立ち寄った酒場でのアクッ語での会話を耳に挟んだサムは(なぜかサムは初めて聞くアクッ語を理解できましたが、そのことをゼンチュアには隠しています)、ゼンチュアがチャーリーを娼婦として売り飛ばそうとしていることを知ります。チャーリーに警告して逃げ出そうとしますが、時すでに遅く、荒くれ男たちに襲われたサムは殴られて気を失い、チャーリーは拉致されてしまいます。ゼンチュアと対決したサムは偶然、ブーリアンから渡されていた“オマクの宝石”(実は高度な科学デバイス)を作動させることに成功し、ゼンチュアを制圧します。自由の身になったサムは、チャーリーが芸術的錬金術師ボーデイの工房へ運ばれたことを知ります。チャーリーはそこで数日をかけ、完璧な娼婦となるために肉体と精神を改造されることになっていました。宝石の助けを借りてボーデイの工房に忍び込んだサムが、不安にさいなまれながらチャーリーの奪還を決意するところで、「第2巻へ続く」となります。

さて、これからが本題(笑)のトンデモ翻訳の紹介です(一応、こっちも本職ですから(^^;)。
この翻訳者のかたは、サンリオSF文庫やハヤカワ文庫でかなり翻訳書を出しており、「エンダーのゲーム」や『アラン史略』3部作など、かなり読んでいますが、特に不自然な点は感じませんでした。ところが、この「変容風の吹くとき」になると、「すべて英語の語順通り、忠実に直訳する」ことと、「自分独自の感性(?)に基づく、わけのわからない特殊な訳語を多用する」という、読みやすさを全く無視した翻訳術を駆使して、誰も理解・共感してくれない(であろう)自分だけの訳文を構築してしまっています。事実、本作以降、この人に翻訳の注文はほとんど来なかったようです。
「トンデモ本の世界R」のレビューで、山本さんは「最後まで読めた人間が日本中に何人いるか疑問である」と書いていますが、これは主に上記の第一の「日本語らしからぬ語順」を指しているのだと思います。ところが、実際に読んでみると、予想したほど読みにくくはありませんでした。というのは、日常的に英日翻訳を行っている人間にとっては(まあ、そういう人は多くはありませんが)本書のような語順の日本語は、ある意味おなじみのものなのです。英文を日本語に翻訳する際、翻訳者は2段階の作業――「1.英文の意味を把握すること」と「2.把握した意味を、わかりやすい日本語で書き表すこと」――を行いますが、実は多くの翻訳者は、第1段階では無意識のうちに英語で書かれた内容を頭の中で語順通りに日本語に変換し、意味を汲み取っています。それを書き表せば、本書のような文章が出来上がりますが、その段階で文章にすることはしません。その内容を整理したうえで、わかりやすい自然な日本語の文章にする、という第2段階の作業を行って、翻訳文が完成するわけです。いわば、第1段階は下ごしらえで、それを料理に仕上げるのが第2段階です。ところが、本書では下ごしらえしただけの材料をそのまま読者の前に投げ出しているわけで、例えればフランス料理を食べに行ったレストランで、下ごしらえしただけの生の食材を「さあ召し上がれ」と出されたようなものです。一般の読者が消化不良を起こすのは当然のことでしょう。
2番目の「わけわからん訳語の使用」は、上の料理の例えで言えば「調味料の使い方がめちゃくちゃ」ということになるでしょうか。文中でよく使われている「わけわからん訳語」をいくつか挙げると、「ぜってば」(たぶん何らかの接続詞)、「こんこんちき」(very muchのような強調表現らしい)、「へったくれ」(これもたぶん強調表現)、「うちの衆」(家族のこと)、「いかれぽんち」(これはもう死語でしょ)などなど。また、サムやチャーリーは会話の中でたびたび「聖なる糞」と毒づきます。これは間投詞 holy shit の直訳でしょうけれど、女子高生が会話の中で漢字の(笑)「糞」とは言わんでしょう。裏切ったゼンチュアに対し、サムが「この雌犬の息子めが!」とか、「この馬淫者め!」とか言って罵倒しますが、どうみても女子高生のセリフじゃありません。こちらに関しては、言い訳も擁護もできませんな(^^;
そんなわけで、原書と突き合わせながら本書を読むと、翻訳の勉強には役立つかもしれません(お勧めはしませんが)。

オススメ度:☆


変容風の吹くとき (角川文庫―チェンジウィンド・サーガ)
変容風の吹くとき (角川文庫―チェンジウィンド・サーガ)

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この記事へのコメント

2019年12月31日 16:14
○にさん、翻訳されている方だったんですね。おみそれしました。
興味を持ってこの作品タイトルで検索してみたら、どの記事でも見事なまでに「トンデモ翻訳本」として取り上げられていて笑ってしまいました。この翻訳者の方はそれ以前は特に問題なかったという事なので能力不足はありえないでしょうから、この作品を手掛ける前に何か変な宗教めいたものに嵌ってしまったとか、そういった事でもあったのでしょうか?
翻訳専門書でときどき、「一部の章だけ訳がめちゃくちゃ」というのがあるのは、翻訳者として名前が出ている偉い先生が、弟子や学生に分割して訳を下請けに出して、その下請けの一部がいい加減だったり学力不足だったりした結果というのは、自分が実際にその手の仕事に関わったときに理解できました。また、以前にあったアインシュタインの伝記の機械翻訳事件の場合は、担当者がキャパを超えた仕事を受けてしまって投げだしたのが原因だったようですが、現在でもこの手の事は起こっているのでしょうか。
○に
2019年12月31日 17:31
X^2さま
ご丁寧なメッセージ、ありがとうございます(^^
本書は、いろんな意味で(笑)勉強になりました。
翻訳者もピンキリで、質・量ともに分不相応の仕事を受けると、えらいことになってしまうようです。実際、途中で夜逃げ(?)してしまった翻訳者の尻拭いを頼まれたこともありました。
機械翻訳も流行っているようですが(同じ原文でも文脈により様々な訳語が想定される小説などの出版翻訳の世界には、事実上、まだ対応できていませんが)、ビジネス翻訳の世界でも、コストを削減しようとして機械翻訳を使った結果、出来が悪すぎて全部やり直しになり(笑)、かえって費用と時間がかかったという例も見聞きしています。